SHIROのIchigoJam日記

マイコン「IchigoJam」(イチゴジャム)の電子工作とプログラミングをメインに

東北冬の旅:1日目(2/13)

朝の仙台駅。ちょっと休みが取れたので、寒い時期にあえて北へ行って冬を楽しもう!と、バスタ新宿から夜行高速バスに乗ってきました。

駅ビルで仙台名物ずんだシェイクの自動販売機を発見。最近は冷凍食品の自動販売機が増えましたが、ずんだシェイクを売っているとは知りませんでした。

早速購入してみました。450円。カチカチに凍っているので融かさないと食べられません。この寒さで、どこまで持ち歩けば融けるのか…?

仙台から仙石東北ラインの快速で石巻へ向かいます。

エンジンとバッテリーで駆動するハイブリッドカー石巻まではずっと電化区間ですが、エンジンを回して発電して走るのかも。

調べてみましたが、東北本線は交流電化、仙石線は直流電化なので、両方に乗り入れる仙石東北ラインではハイブリッドカーが使われているようです。
(交流・直流両用車は高価になる)

車内の暖房でずんだシェイクを解凍中(^_^)

塩釜辺りで融けてきたので吸ってみます。ずんだ茶寮のシェイクより豆の粒々が残っていて、ずんだのあんこに近い感じです。美味い(^_^)

松島の島々。

松島駅の手前で、東北本線の線路から渡り線を通って仙石線へ移ります。

東日本大震災の時は、大小の島々が津波を食い止めたお陰で、松島海岸は大きな被害が出なかったそうです。

立派な高架線を走ります。恐らく震災後に内陸側へ移設された線路。

石巻に到着。
石巻石ノ森章太郎さんが少年時代を過ごした街で、商店街には石ノ森さんのキャラクターの像があちこちに並んでいます。駅から10分ほどの旧北上川の中州には石ノ森萬画館があります。
上田の情報センターも石ノ森章太郎さんが名誉館長になっている縁もあって、石巻萬画館には何度か来ています。
東日本大震災では石巻も大きな被害を受けて、街中には津波の爪痕がいまだに残っています。

石巻線に乗り換えて小牛田方面へ。ここからは初めて乗車する区間です。

石巻線の沿線には田んぼが広がります。

前谷地(まえやち)駅に到着。乗り換え時間があるので、外へ出てみました。

河南町の中心駅。

路線図。ここから気仙沼線で太平洋岸を北上します(図の右方向)。
途中の柳津からはBRT(バス)になっています。

気仙沼線・柳津行きのディーゼル列車に乗車。

のの岳駅。昔から時刻表で見て気になっていたのですが、どんな歴史でこの地名になったのか…?

柳津駅に到着。線路はここまで。
この先は東日本大震災津波で被害を受けて、鉄道での復活を断念。BRTになりました。

BRTの乗降場。線路だった敷地が舗装路になっています。

気仙沼行きのBRT

交通系ICカードが利用可能

柳津駅を発車。元線路だった道を走っていきます。

車内の路線図。BRT終点の盛まで行きます。

BRTも鉄道と同じ扱いなので、仙台から通しで切符が買えます。運賃は高めのようですが。

時々BRT専用道を外れて一般道へ入り、道の駅、役場、病院などを通って行きます。

鉄道時代のトンネルがそのまま使われています。

本吉駅。元の駅舎がそのまま使われています。
柳津〜本吉間は、国鉄時代末期に最後に開通した区間で、トンネルが多いです。

道の駅大谷海岸。JR駅と併設。

マンボウが漁獲されているようです。

気仙沼駅に到着。

BRTの向かい側は鉄道の大船渡線ホーム(一ノ関方面)

乗り継ぎ時間があるので、外へ出てみます。

駅舎内にはNewDaysがあります。

発車標。12:03発の盛行きBRTに乗ります。

時刻表。大船渡線の鉄道は一日9本。BRTの方が本数が多いです。

一ノ関~気仙沼ポケモントレインが走っています。

一ノ関からの列車が向こうの4番線に到着。
手前の1・2番線のBRT車線は、アスファルトで埋められてホームとの段差が少なくなっているのがわかります。

大船渡線BRT・盛行きに乗車。

しばらくBRT専用道を走った後、一般道へ出て、何と高速道路(三陸道)へ入ります。

一般道へ降りて、奇跡の一本松バス停。津波伝承館があります。遠くに一本松が見えたんですが、写真を取り損ねました。

陸前高田バス停。広大な空き地が広がります。震災前は街があったのでしょう。

高田高校前から高校生たちが多数乗車。まだ昼なんですが、試験期間?

しばらく一般道を走った後、再びBRT専用道へ。

かつての駅がバス停になった所では、線路だった空き地やホーム跡などが周囲に残っています。

駅以外にもところどころですれ違いスペースがあります。鉄道で言えば信号所。

緩やかに続くBRT専用道を見ていると、「列車が走っている時に乗りたかったな」と思います。

そろそろ終点の盛駅。BRT専用道と三陸鉄道の線路が並びます。

盛駅に到着。右側がJR、左側が三陸鉄道の駅舎。

ここで乗り継ぎ時間が2時間あります(^_^;)
まずは昼ご飯を食べようと中心街方面へ歩きます。

そば屋「千秋庵」へ。この店は食べログに出ていました。

天ざるそばを注文。さすが三陸海岸で、海老天がサクサク&ジューシーで美味い(^_^)

そば屋を出て少し歩いた所にある、岩手開発鉄道盛駅跡。
残念ながら1992年に旅客営業は終了していて、現在は貨物輸送のみ行われています。

残念ながら駅は立ち入り禁止。

盛駅跡の反対側には、車庫とディーゼル機関車
岩手開発鉄道は山で採掘した石灰石を、海際の太平洋セメントの工場へ輸送しています。
https://kaihatsu-railway.co.jp/

盛駅へ戻って、駅を跨ぐ跨線橋へ上ってみました。
左側がJRの大船渡線BRT、中央が三陸鉄道の線路、右側が岩手開発鉄道の線路。

駅の反対側。左側へカーブしていくのが岩手開発鉄道、中央が三陸鉄道の車庫、右側が三陸鉄道の釜石・宮古方面、BRTの気仙沼方面。

ちょうどいいタイミングで、岩手開発鉄道の貨物列車が来ました。

太平洋セメント工場から来たので、貨車は空です。

山の方へ走っていきました。かなり長いです。

跨線橋から少し南側、BRTと三陸鉄道の線路が並ぶ珍しい踏切。
そしてこの踏切は、警標(黄色と黒の×)があって遮断棒が無い、いわゆる第3種踏切です。全国で数%しかない珍しい踏切。
向こう側の岩手開発鉄道の踏切は、警標と遮断棒がある普通の第1種踏切です。

三陸鉄道の駅へ。

時刻表。一日11本。

食堂の食券のような券売機。宮古まで2310円の切符を購入。

三陸鉄道宮古行き。

釜石東中学校の生徒がデザインした列車だそうです。

盛駅を出て、BRTの専用道から分かれます。

岩手開発鉄道の線路を跨ぎます。向こうがセメント工場。

恋し浜駅。恐らく観光用に3分停車。

駅待合室の中には絵馬代わりにホタテの貝殻がたくさん。

多分もともとの地名は「小石浜」でしょう。

釜石から2つ先、鵜住居(うのすまい)駅。向こうに見えるのが釜石鵜住居復興スタジアム。ラグビー釜石シーウェイブス(かつての新日鉄釜石)のホームスタジアムで、2019年のラグビーワールドカップ前にできました。
ワールドカップの時はここで2試合が開催されました。ぜひ見に来たかったのですが、チケットが全然取れませんでした(^_^;)
結局、神戸と花園の2試合のチケットが取れて、関西へ観戦に行きました。

大槌(おおつち)駅のそばにそびえる防潮堤。震災では大槌も津波で大きな被害を受けました。
沿線のあちこちでこうした防潮堤ができています。

リアス式海岸なので、山と海が交互に見える車窓です。もう夕暮れ。

岩手船越駅。「本州最東端の駅」とアナウンスがありました。

織笠駅。映画「すずめの戸締まり」や様々なドラマに登場する有名な駅。この駅も震災後に1kmほど内陸に移設された新しい駅です。

宮古駅に到着。イルミネーションで輝いています。今日の移動はここまで。

そろそろ夕御飯の時間ですが、駅そばは午後3時で終了。残念。

という訳で、駅のそばにある食堂へ。
私はアルコールがダメで居酒屋には行かないので、こうした地元の食堂は本当にありがたいです。

まず間違いなかろうと焼肉定食を注文。
昔ながらの生姜焼きで、今時は却って珍しいメニューかも。美味しかった(😊)

宮古駅そばの末広町商店街。
初めて宮古へ来た30年ほど前、このオリックスレンタカーの辺りに、旅館兼ユースホステルの「末広館」がありました。2泊したのですが、旅館と同様に刺身などの夕御飯が出て、寝室は畳敷きの大部屋でした。
そこで同室だったオーストラリアの大学生と、片言の英語と身振り手振りでコミュニケーションして仲良くなり、翌日は観光地の浄土ヶ浜へ一緒に行きました。
夕方に宮古市街へ戻って来たのですが、ちょうどGWで子ども向けのお祭りイベントをやっていて、たくさんの出店のほか、広場の大スクリーンではドラゴンボールのアニメを上映していました。オーストラリアの彼は見てもよくわからなかったと思うのですが、最後のクライマックスシーンでは「Happy end!」と言っていました。
末広館ユースへ戻って、彼と分かれて私は1人で夕御飯を食べていました。(外国人旅行者は食費を浮かすために、ユースの食事は頼まずに外で済ませることが多い)。すると彼が外からやってきて、
「祭りの実行委員の人達と呑むことになったから、今から一緒に来てくれ」
私はビックリして箸を止めて、
「Now!?」(今!?)
と叫んでしまいました。
彼と、ユースまで来ていた地元の若者たちと一緒に、近くの居酒屋の2階の座敷へ。彼の言葉を翻訳しながら宮古の若者達と一緒に呑んだのでした。彼らはいわゆる「青年の船」の仲間だということでした。
その後2000年に、私は信州青年洋上セミナー(長野県版の青年の船)に参加して、船で中国へ行きました。帰国後もその仲間達と様々なイベントをやりました。今思うと不思議な縁でした。

…と懐かしい思い出を振り返ったところで、ホテルへチェックイン。今日の旅はここまで。
明日は三陸海岸をさらに北上して、青森方面へ行きます。