私がいる情報センターでは、子ども向けのイベントでパソコンを使った工作物を良くやります。
例えば、電車の型紙にパソコン上で色を塗って、プリンターで紙に印刷し、はさみで切ってのりで貼ると、自分のオリジナルの電車ができ上がり。無料でやることもあって、家族連れに人気があります。
ところが、子どもがパソコンの前に座って喜んで色を塗り始めると、隣に座っているお母さんが突っ込みます。
「なんで窓に赤塗るの? おかしいじゃないの」
「なんで髪の毛が青いの? 違う色にしなさいよ」
しぶしぶ子どもは、お母さんの言うとおりに色を塗ります。私がそれを印刷して「はい」と手渡しても、その子はもうやる気を失っています。結局「やだ、お母さんやって」と工作の途中で放り投げてしまい、「自分でやりなさいよ」とお母さんが文句を言ってケンカになったりします。
私はそんな様子を見ていて、「何で親の価値観を子どもに押しつけるのかな」と思います。
そもそも、芸術は自由なものです。絵を描く時も、そこに無い色を塗ったっていいし、そこに無いものを描いたっていいのです。例えば名画と言われる風景画でも、実際の景色と見比べると全く違っていたりします。現実そのままでいいのなら絵など描かずに記録写真を撮ればいいのであって、自分の描きたいもの、表現したいものを織り込むからこそ「その人の絵」なのです。
子どもが「この色を塗りたい」と思うなら、怒ったりしないでその通り塗らせてあげればいいじゃないですか。
そこで親が自分の価値観を押しつけて変えさせてしまったら、結果として「いい作品」ができたとしても、それはもう子どもの作品ではありません。親の作品です。
情報センターでなぜ工作イベントをやるかと言えば、「子ども達に、パソコンを使えばこんなことができるのだと知って欲しい」「自分の手で作品を作ることを楽しんで欲しい」といった願いがあるからです。できた作品の善し悪しは結果に過ぎません。
どうも、その「結果」ばかりを追い求める親が多いように思います。学校の夏休みの工作などで採点・評価されることに慣れてしまって、「無条件の肯定」の目を持てなくなっているのでしょうか。
工作した「物」ではなく、工作をする「体験」が子どもにとっては大事なのです。親の方が結果ばかりを追い求めて、大切なものを失っている気がしてなりません。
もう一つ、時々ある家族の風景ですが、泣いてしまった子どもに対して、
「そんなに泣いていて恥ずかしいでしょ。みんな見てるよ」
と怒るお母さんがいます。
そんな姿を見て、私はつい突っ込みたくなってしまいます。
「いやいや、『恥ずかしい』と思っているのはお母さんですから。子どもじゃないですから」
どうも見ていると、「自分が感じることは、子どもも同じように感じるはずだ」と思いこんでいるお母さんがいるようですね。
親と子どもは全く別の人間です。自分の気持ちは自分のものであって、子どものものでは無いのです。そこはちゃんと区別しないといけません。
そして、「みんなが見ているから」と子どもを叱っていると、子どもは「じゃあ、見られていなければ/自分だとバレなければ何をしてもいいんだ」と学習してしまいます。学校裏サイトなどの掲示板で、匿名の書き込みでネットいじめをしてしまう原因の一つがここにあります。
見られていても、いなくても、正しい事は正しいし、いけないことはいけないのです。それを子どもにちゃんと伝えないといけません。
子どもに怒る前に、一歩立ち止まって、「本当に怒るべき事か?」と考えてみてください。
「本当に怒らなければいけないこと」と「自分の価値観に過ぎないこと」とを区別しましょう。
例えば、人を傷つけたり、人の物を盗んだりするのは、本当にいけない事ですからちゃんと怒らないといけません。
しかし、「どんな色を塗るか」や「服装」「物の使い方」などは、人の好みや価値観、文化などによっていくらでも変わるものです。絶対的な善悪ではないのです。
親が自分の中でちゃんと区別していけば、不必要に怒る回数は減っていくでしょう。